メキシコシティの家探しと都市の輪郭

メキシコシティで家を買おうかと思い、色々と見て回っている。予算的に新築は買えず、中古でいいので、そこそこいい場所がいいなと思うのだが、いい場所で予算に見合う物件というものは何かしら訳アリであることが多く、今回見た物件もそうだった。

土地というものは歴史と密接に結びついていて、調べてみると、メキシコの輪郭がうっすらと見えてくる。

 

メキシコシティで文化があり、歩いて街を楽しむことができると感じる場所は、そんなにない。公共交通が便利で、街が面状に広がり歩いて楽しむことができるような東京のようなイメージでいうと、映画にもなったローマと呼ばれる地区と、メヒコ公園、エスパーニャ公園をはさんだコンデサあたり、そして駐在員がよく住むユダヤ人街のポランコ、インスルヘンテス通り近くのナポレス、ローマの北のファレス、ゾナロサと呼ばれる場所くらいになる。

分かりやすいのは、Ecobiciという市がやっているレンタサイクルのカバー範囲で、要するにこのなか以外は見栄えがする街ではないということになる。最初に知ったとき、これは官製の差別みたいなもんだなと感じたが、我が家はこのゾーンから離れていて、都市なのだが住宅ばかりの砂漠のような感じで、歩いてどこかに行くというより、車で買い物にでかけるような感じのエリアになる。まあ車でローマ地区に行ったりすると、道が狭いので毎回駐車場所に難儀するし、地震でビルは崩れているし、気取って何でも高いので、個人的には一長一短だなと思うが、負け惜しみ感は常に漂っていた。

 

そんな中で不動産サイトで見つけた、レフォルマとインスルヘンテス大通りが交差するあたりの場所の物件だが、周辺の値段を考えるとかなり安いものがあったので、見に行ってみた。
少し変わった間取りで、台所を無理やり移設するなどしていたが、1階なのでちょっとした庭もあり、リビングは屋根が高く、物件自体は悪くない。

その後、建物の周りを少し歩くと、道の先がテント村のようになっていて、交差点は彼らのテントで占拠されている。これでは車が通れない。歩道を進むことはできるが、異臭がするなど、あまりよい環境とは言えない場所となっていた。

 

テント村の住人たちは、どうもメキシコの先住民族オトミ族の人達らしい。元々、向かいの放置された邸宅跡に20年以上勝手に住んでいたが、2017年の地震で建物が崩壊したこともあり、市当局が敷地から追い出したところ、建物の両端の道路を占拠してテント村を作り、今に至るようだ。

彼らは主にゾナロサなどのエリアで、民芸品の人形を露店で販売するなどして生計を立てているそう。追い出した市当局に対して、近隣で代わりに住む場所を要求して占拠を続けており、市が提案した場所は、働く場所から遠いという理由で拒否したとのこと。

ちなみにこの邸宅は、スペイン内戦時代にフランコと敵対する共和国派の大使館として利用されていたものだった。当時、枢軸国がフランコ支持、アメリカやイギリスが中立に回る中、国として共和国派を支持したメキシコは、敗れた共和国派の知識人を多く受け入れ、彼らがメキシコの近代化に果たした役割は非常に大きいが、共和国派の大使館が続くのは難しく、土地の権利関係はうやむやとなり、その後放置されていたようだ。

 

メキシコシティは高級なエリアとそうではない地区がサンドイッチのように隣り合うような傾向があるが、高級な地区の中にも、このように不法に占拠された場所がまだらにある。そこには、国と都市の歴史、そして先住民の扱いという、メキシコの抱えるルーツが凝縮して噴出している。

ちょうどこの占拠がある交差点の角は、お上品なチョコレート博物館と、こじゃれた再開発ビルが建っていて、ジェントリフィケーションを着々と進めていたのが見事に水泡に帰している。再開発ビルのGoogle mapsレビューには「A huge contrast between homeless and hipster.」と書かれていて、誰がうまいこと言えといったんだ、という感じだ。

私はジャカルタの高速道路から見下ろすスラムとか、ラゴスの密集、ブエノスアイレスの夜の中央駅周辺などに心が震えるような旅行者で、学校に通うのに遠回りして大阪の鶴橋から歩いたり、メキシコ人の嫁に東日本大震災の後の福島浜通りを案内したりするタイプなので、子供とこういうところに住むのもいいかなとも思うのだが、まあ当然ながら嫁はあんまり気が進まないようだった。