隣国という視線

隣国というのは、世界中のどこでもその国にとって概ねややこしいもので、特に、隣国に対するメディアの取り上げ方には、独特の偏りを感じることが多い。

ネットは見出しが命ということで、日本メディアの韓国煽り見出しや崩壊論なんかもそうだろうし、EUとしてかなりのレベルの相互理解があるヨーロッパ内ですら、英仏とか仏独間なんかでも、特定の文脈が妙に強調されるようなケースがよく見られる。


ここメキシコでも、米系メディアのメキシコ関連のニュースを読む時は似たような感じをしばしば受ける。保守系のメディア、ForbesとかWSJなんかは常にメキシコを小馬鹿にする感じが漂うし、ビジネス系のBloombergなんかも、ペソが上がっても下がっても政権の問題になっていて、悪いから上がるのか、悪いから下がるのか、この間言っていた話と逆じゃないかと、なかなか傍目から見ていても興味深い。

あとはカリフォルニアとかテキサスとかもともとメキシコだったようなところや、中南米向けのメディア拠点のフロリダにはスペイン語メディアとかシンクタンクみたいなものがあり、こういう所のコメンテーターなんかも辛辣に書く。寄稿者のプロフィールとかを見てみると前政権の関係者だったりして、なるほど、こういうところに転職するんだなと感心させられる。キューバ移民が多いフロリダが一番のキューバ強硬派になるような話と似ているのだろう。

そんな中、NY Timesがフラットな感じでメキシコ市長の話を書いていて、おお、これは珍しいなあと思ったら、市長がユダヤ系というのを小ネタにしていた。ああ、その手があったか、いつものひどいメキシコ像ではない提示をする時にはこうやって書くのか、これでアメリカ人というか、NY Timesの読者層には届くんだろうなと思わず笑ってしまう。

メキシコのエリートのプロフィールを見ると、大体アメリカの大学にも行っているような感じだが、洗脳されやすい若者の時に、こういう感覚を持つ国に行って勉強せざるをえないというのもなかなか複雑なもんだろうなという気がする。
シカゴ学派にやられた国として、チリ、ロシア、メキシコあたりがしばしば悪い例として取り上げられるが、コンプレックスの裏返しのような改革を自国にインプリメントしようとしてもうまくいかないことは、歴史が証明してしまった。

「かわいそうなメキシコよ。神からは遠く、アメリカにはあまりに近い」というのは現在も続いている。
カナダにしても、メディアリテラシー教育が優れているのはアメリカが隣だからだというのは元も子もない話で、カナダが倫理的な正しさや多文化の共生を言うのも、隣のアメリカとどう対峙するのかというところから出てくるのだろうなと思う。


一方で、メキシコ国内のメディアがまともな報道かというと、もちろんそんな訳もなく、テレビ局は基本的に政商のコングロマリットの一部として機能しているので、親政府というのは揺るがない。そして、こっちに来て驚いたのが政府系CMの多さで、今の大統領はこれをメディアへの補助金だと批判して当選したものの、テレビもラジオも政府系CMの数が減った気配はない。
比較的まともな情報公開制度があるようなので、骨のあるジャーナリストの調査報道から火が付くケースもあるが、なんだかうやむやになって終わることも多い。

そして、ソーシャルメディア中毒もあいまって、ケンブリッジ・アナリティカのような会社もメキシコで早くから活動していた。ろくでもないマーケティングに対して脆弱な国民性が、さらに情報流通をカオスにしている。


日本のメディアは中南米をあまりカバーしている感じがないが、日経がメキシコに支局をおいていて、少しニュースが出てくる。自動車業界の進出なんかを見据えたのだろうが、NAFTAがUSMCAになってしまい目算が狂ってしまっている中で、何時までもつのか正直心配な感じだ。
また、欧米メディアの特派員なんかと比べると、彼らは在住30年とかそういうレベルでその国をずっとカバーしていて、国の移動ではなく、別メディアに移ってその国の特派員を続けるというパターンのほうが目立つので、迫力が全然違う。


まあそんなこんなで、情報の摂取量が少ない上、なかなか良いソースを見つけることができない感じだが、それが外国人として他の国に住むことなんだろうなとも思う。