The Slow Train South to Mexico City

By John Perrotta
November 9, 1986

テキサスからメキシコシティ行きのフライトはキャンセルした。
2時間弱のせわしないフライトよりも、ゆっくりと過ごすことに決めたからだ。列車の車窓から眺めるメキシコの風景は、旅の始まりにふさわしいとも思った。28時間かかる列車の旅だったが、その速度は心地よく、値段も手頃で、忘れがたい異文化を垣間見ることができた。

アステカ・イーグル号は、毎日、国境の町ヌエボ・ラレドからメキシコシティへ向けて出発する。国境から首都までの最短ルート(1247km)を走る列車だ。2等車の場合、混むと落ち着かないかもしれないと聞いていたので、奮発して1等車にし、古い寝台車の個室(カマラン)を確保した。料金は合計25ドル。

列車は午後7時、わずか5分ほど遅れて、ヌエボ・ラレドを出発した。しかし、時間の感覚を失うまでにそれほど時間はかからなかった。ある場所では、列車があまりにもゆっくり走っていたので、周りへの警告のため、ボーイが列車から発煙筒を線路わきに投げていた。火が燃え尽きたら、列車は走れるようになるのだ。

 

アステカ・イーグル号路線図

 

真夜中に、メキシコ有数の工業都市モンテレイに到着した。5時間で267km、時速約53kmでここまで来たことになる(全行程の平均時速は45km)。

この旅は、しばしば冒険心をかきたてるものだった。人けのない長い区間が何度もあり、機関士と無線が通じないこともあった。
私はよく最後尾の車両のデッキに立ち、外の空気を楽しみながら、カーブを曲がるときの列車の傾きや、機関車の上に上がる煙を見ていた。車掌がデッキに出てくることもあったが、私がいても気にする様子はなかった。


アステカ・イーグル、スペイン語ではアギラ・アステカの歴史は、19世紀末にメキシコの独裁者ポルフィリオ・ディアスがアメリカ国境までの線路敷設の利権を与えたことに源を発する。1888年デンバー・アンド・リオグランデ鉄道の社長だったウィリアム・ジャクソン・パーマーがメキシコ国鉄を完成させた。メキシコシティからヌエボ・ラレドまでの狭軌の線路である。そこからはミズーリ・パシフィック鉄道などとつながり、最終的にはセントルイス、シカゴ、ニューヨークといった遠方からの寝台列車による豪華な旅が可能になった。その後、線路は標準軌に改軌される。

この線路とそこを走る列車は、1910年のメキシコ革命で重要な役割を果たし、双方とも兵士、馬、軍需品の輸送に鉄道を利用した。しかし、革命は鉄道に大打撃を与え、1937年には政府が鉄道の大部分を管理するようになった。

スイスで試験運行中の、アステカ・イーグル号車両

1953年、アステカ・イーグルは、スイス製のヨーロピアンな車両で運行を開始した。寝室、ゲストルーム、専用シャワー付の客室、バー付きの展望車、クリスタルや陶磁器で飾られた44人乗りの食堂車を備え、内装はアステカをテーマにしていた。しかし、この新車はメキシコの険しい地形にうまくなじめなかった。そこで、ニューヨーク・セントラル鉄道などアメリカの鉄道会社から買い取った中古の車両を改造して補充した。現在では、ほとんどの車両が第二次世界大戦後のもので、装備もまちまちである。全体的に手入れが行き届いていて、乗り心地もいい。

モンテレイからは食堂車が連結されるはずだったが、今回の編成に食堂車はなかった。代わりに、主要な停車駅では地元の人々が乗り込み、タコス、チキン、魔法瓶から注がれる甘めのブラックコーヒー、瓶ビール、ソフトドリンク、ミネラルウォーターなどを売り歩いていた。


私の個室には、ベルベットのソファと、向かい合わせに赤いビニールのシートがあり、シートは持ち上げるとトイレとして使えるようになっていた。頭上には荷物棚があり、壁にはコートクローゼット、シューズロッカー、薬箱、そして石鹸、タオル、紙コップが完備された折りたたみ式の流し台がある。しかし、水は飲めない。天井には扇風機がつき、ドアと窓にはカーテンがかかっている。

各車両には白いジャケットを着たポーターがいて、夜は淡々とベッドメーキングをする。ベッドは壁から引き下げられ、個室スペースの大半を占めるようになる(私は廊下からベッドに入った)。マットレスは狭いながらもしっかりしていて、枕とプルマンのエンブレムのついたウールの毛布があった。

一方、お湯は出ず、エアコンは効かないし、窓も開かない。ポーターは突き放した態度になる時があり、帰りの個室では水漏れがあり窓も割れていたが、特に何かをしてくれくれることはなかった。

当時の車両とポーター


しかし、アステカ・イーグルに乗るという経験は、その欠点のほとんどを覆い隠してしまう。朝、ベッドに座って砂漠の景色を眺める。乾燥した藪の平原が延々と広がり、浸食されて出来たテーブル状の台地(メサ)や険しい東シエラマドレ山脈につながる。動物が草を食み、ダストデビルが農家の畑で飛び跳ねている。そして、先住民の飲み物であるプルケやテキーラ、メスカルを作るリュウゼツランはどこにでもある。

そして繰り返し目にする光景。線路沿いに建てられたトタン屋根の掘っ立て小屋に住む、ボロボロの服を着た貧しい人たち。牛やロバ、ヤギ、そして子供たちが片方の手に抱かれて立っている。個室寝台の厚いガラス越しからでは、何を話しているのかわからない。


翌朝の午前8時、列車は古い銀鉱山の町カトルセに近いエスタシオン・カトルセに停車した。1773年、豊富な銀鉱脈の発見で誕生したこの町は、かつて4万人の住民で賑わっていた。現在では600人が住んでいる。標高2743m、北米で最も標高の高い都市の1つである。

ポーターは、廊下でベッドメイキングをしていた。列車はワドレーで一休みして北回帰線を超え、小さな駅のモクテスマで停車して、午前10時、1860年代には一時的に首都となった大都市、サン・ルイス・ポトシに入った。

サン・ルイス・デ・ラ・パスでは、鉄道員たちが線路の外側にある貨車で生活していた。堤防や暗渠、橋の修理のために、彼らやその家族はあちこちに移動する。貨車中央のドアに上がる木製のはしごの上に、女性が腰を下ろしていた。

ケレタロには午後3:40着。車窓からは、250年前にスペイン人が造ったという長い水道橋が見え、コロニアル様式の美しい教会もいくつか目に入った。ケレタロはサン・ルイス・ポトシと同じくメキシコの州都であり、メキシコの歴史の証人でもある。アステカ帝国の一部であり、スペインに対する反乱の中心地となる。1867年にはオーストリア人の皇帝マクシミリアンが銃殺刑に処され、1917年には現憲法が起草された場所でもある。メキシコの長年の支配政党である制度的革命党(PRI)は、1929年にここで組織された。

ケレタロの水道橋

午後6時半には、ウイチャパンという小さな町に入った。この町の駅については、ポール・セローの本『The Old Patagonian Express(オールド・パタゴニア急行)』の「アステカ・イーグル」の章で雄弁に語られている:

ウイチャパンの整然とした駅には誰もいなかった。誰も乗らず、誰も降りず、旗を持った信号係だけが列車の外に出てきた。ここでも他の場所と同じように、朝、川で洗った洗濯物がメキシコ式に干されていて、トゲトゲのサボテンが、干された洗濯物を纏ってしゃがんだ姿になっている。
ウイチャパンのプラットホームで偉そうに振動する列車はその場所にある種の壮大さを与えていたが、私たちが出発して振り返ると、小さな駅には孤独が漂っていた。埃が地面に舞い、サボテンたちはボロい服を着て、まるで残された乗客の幽霊を真似たように、しゃがんだ姿勢のまま残っていた。


午後10時半には、私たちはメキシコ盆地に入り込んでいた。フラッグストップ(駅以外での停車)や通過待ちを含めて、すでに80回ほど停車している。このあたりは、明らかに人口密度が高く、山肌にも街灯や家の明かりが点在している。1325年にアステカ族が定住した西半球で最も古い都市であり、1700万人近くが住む世界第2位の都市圏に入ろうとしているのだ。

列車が時間通りであれば、雪をかぶった壮大なポポカテペトル(ナワトル語で「煙る山」の意)を見ることができただろう。この休火山は、1943年に最後の噴火を記録している。標高約5400メートル、北米で最も高い山のひとつだ。

午後11時、アステカ・イーグル号は終着駅に到着した。メキシコシティの巨大ターミナル、ブエナビスタ駅である。わずか3時間の遅れだった。外には、1910年製の機関車が、メキシコの発展に果たした鉄道の役割に敬意を表して、静かに佇んでいた。空気はひんやりと乾いていて、街は光に輝いている。首都の街や博物館で新たな冒険を始める前に、一息つくことができた。

 

夜のブエナビスタ

在りし日のホーム


ジョン・ペロッタ(John Perrotta)は、ワシントンのジャーナリスト、弁護士、言語学者

 


方法と手段

30日以内のメキシコ滞在の場合、ツーリストカードのみを提示すればよく、カードはメキシコ政府観光局、メキシコ領事館、航空会社、旅行会社、ヌエボ・ラレド税関で入手可。料金は無料で、米国籍を証明するもの(パスポートまたは出生証明書)の提示が必要。

行き方アムトラックでサン・アントニオ(テキサス州)まで南下し、さらにバスでラレドまで3時間半。国境を越えてヌエボ・ラレドまでの短距離移動にはタクシーが利用できる。車の場合は、ラレドにもヌエボ・ラレドにも車の預かり所あり。

アステカ・イーグルは毎日午後6時55分にヌエボ・ラレドを出発する。予約はできないが、ほとんどの場合チケットは入手できるだろう。2等車料金は約$10、1等車料金は約$15。寝台の利用には1等車のチケットが必要。上段または下段寝台付きの1等車チケットの料金は約$17、ルーメット(1人用寝台個室)の1等車は約$20、ベッドルーム(多人数用寝台個室)1等車は1人あたり約$24(最低2人から)。すべての設備タイプが利用できない場合もあり。

ヌエボ・ラレド駅のチケット窓口は、月曜日から土曜日(祝日を除く)の午前10時50分から午前11時50分、午後5時30分から午後6時55分まで営業。途中での下車も可能だが、切符を買うときに駅員に伝えること。

食事:列車には食堂車があり、主な停車駅でも通常売店があるが、食べ物や飲み物は各自で用意した方がよい。

情報:詳細については、メキシコ政府観光局(Suite 430, 1615 L St. NW, Washington, D.C. 20036, 659-8730)まで。

 

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