大阪とか選挙とか

先月、諸々の手続きの関係もあって、家族で日本に戻っていた。今回戻らないと、翌週から手続きに10万円余計に取られるようになるとか、予約変更をしたら数万円かかるとか、実質的な金銭被害が明確に見えてきていて、まあ来るなと言われているのは分かっているが、仕方なく決行したという感じだ。

3週間弱のチケットを取っていたのだが、このご時世なので、コロナの隔離が主な活動ということになり、東京にはもう家がないので、必然的に実家の大阪へ行くことになる。

 

私が海外旅行に行くようになったのは、東京に住み始めてからという感じなので、飛行機の予約は東京発着で慣れていたのが、今回は大阪発着になった。まず驚くのがコロナの影響下にあるアメリカとの直行便の便数で、東京は5-6都市からほぼ毎日のフライトがあるのに比べて、大阪へは土曜日にロサンゼルス便が片道で飛んでいるだけという状況になる。

帰りは東京からダラス経由だったのに比べて、大阪便は確かに混んではいたが、それでも供給座席数で東京の40分の1とか、そんな感じのキャパシティになるということで、大阪というのはもうそういうくらいの都市力・経済力ということなんだなあと、複雑な感慨を受けることになる。

 

子供を連れて家の近くの公園に行ったりもしたのだが、どこも全体としては整って美しい公園で、水飲み場やトイレがあるのは本当に羨ましいのだが、いかんせん遊具が古いなあという印象で、メキシコの公園の方が適当でメンテナンスは雑だが、新しい遊具が入れられているような気がする。

以前日本で仕事をしていて、時々大阪の会社と話すようなこともあった。特に大きめの会社や組織では、大体東京と同じような権限とか仕事をしているのが、10歳くらい年上だなという感覚をよく持った。地方都市と言えばそうなのかもしれないが、30代、40代あたりは不満だろうなと思ったことを思い出す。



大阪の小選挙区が維新と公明だけという状況のニュースをみながら、背景としてはやはりこの経済の地盤沈下に輪をかけて、逃げ切れた層とそうではない層の分断の中で、「座して死を待つか、何かやってみるか」という究極的な二択を迫られたことが維新の背景にあることは、分かっている。

 

とはいえ、現時点で維新を当初のブームと同じ構図で話してもあまり意味がない。
もう維新が大阪の政権与党になって10年くらいは経っている。この間に、与党としての経験を重ね、大阪都構想などのイシューがあった中で政治家が鍛えられて、民主主義の学校を卒業した結果、今回かなりの勢力になったんだろう。

実家の選挙区は、コロナの最中に銀座で飲み歩いていた銀座三兄弟の一人の地盤で、まあ自民党というのはこの体たらくという象徴のような感じを受けた。彼がどうかは別として、全体的に自民は地盤を引き継いだような面々なのに比べ、維新はもう少し新しく政治に飛び込んできた人達に見える。


維新にも当然どうしようもないような不祥事をやるような人間もいるが、ブームで地方議員として入ってきて、10年くらい地道に選挙区で対話を重ねてきたような候補者が、維新の中でもある程度選抜されて、今回の衆議院議員候補になってきている印象もある。辻元清美の、維新はローカル政党だから眼中になかったという発言も、今となっては、ローカルだから強いんだという意味になってしまう。

ざっと見ても維新の候補者は次点の候補者を大きく引き離すような勝ち方をしており、選挙カーや事務所などを見ても、自民党やら立憲民主党の存在感は非常に薄くなっている状況で、街はPhotoshop済みの吉村知事の顔だらけという感じで、これはまあ強いなあという感じだった。

 

在阪メディアがどうこうとかいう話も聞くが、私のようにテレビを一切見ないような人間でも、大阪ではもうそういう選択肢しかないんだろうな、というのは薄々気が付くようなレベルに到達してしまっている。

まあそもそも、大阪の自民というのは以前からそんなに強い方でもなかったような気もするし、自民党が勝っているのはアジェンダセッティングが上手いからとか、マニフェストが優れているからという訳でもないだろう。色々と維新は特異に見えるが、足腰の強さというのはこういうところから来るんだろうなというのが垣間見えた気がする。



私は維新支持者でもないし、正直なところ、大阪がよくなったという実感も、これからの希望もあまり持っていない。とはいえ、アメリカから到着した、レンゾ・ピアノの美しく機能的な関西空港の元々のターミナルに比べて、後にできた、東京の帰りに成田から着くLCC用の第2ターミナルの落差が、大阪の状況の暗喩なんだよなあといつも思いながら、目先の安さに釣られて長い通路を歩かされるという選択をしてしまう人間だ。

PAW Patrolという子供向けの海外アニメがあって子供が大好きなのだが、英語音声で見ていると、スペイン語を交えて話すキャラクターがいる。今回日本で日本語版を見たら、彼は関西弁で吹き替えられていて、ここメキシコでスペイン語に囲まれて暮らす関西人としてよく分からない縁を感じたりもする。維新もそうなのだが、そういうアンビバレントな感覚が、離れて住むということなんだろうなと思う。