NYに続いての物価高見学記パート2は、世界一の生活コストで有名なチューリッヒだ。
スイスは昔からなんでも高かったが、最近のレートで円換算すると本当に大変なことになっている。
なんの変哲もない街の写真だが、車の広告を見て欲しい。
スイフトがCHF19,990からということは、円換算で大体350万からということだ。値段を書くということは、それなりに価格に自信があるからなんだろうが、さすがに生活の感覚としては、1フラン100円くらいで物価が均衡するんじゃないかと思う。
美術館も大人2人と子供1人で87フラン取られたが、まあ海外のディズニーランド行くのと変わらんか、と納得させるしかない。
スイスは空港の椅子にあるUSBが使えなかった以外、全ての仕組みがよく考えられており、正しく機能している感が強かった。
家は平気で19世紀とかの建物だが美しくリノベーションされ、まあこんなところから文化が生まれるんだよなという感じの圧倒的な豊かさを感じる。平気で田舎町をポルシェとかメルセデスの高級車が走り回っていて、レストランはどこも一番安い一皿で20-30CHFというような物価水準になり、NYのように探せば安い食事もあるという感じもしない。
Andelfingenという、チューリッヒ近郊の街のB&Bに泊まったのだが、110CHF+10EUROのTAXにも関わらず、宿の口コミにはAffordableと書かれていた。普通のホテルは概ね3万円は覚悟しなければならない。
農家がやっているB&Bらしく、朝食で自家製のジャム、ブドウやリンゴジュースが出るのだが、これが美味い。小麦も自家製のものと一緒に売っていたので、そのパンなのかもしれない。
ここにあるようにスイスの農業政策は家族経営中心で、食料自給率も高い。日本と違い食生活の変化に伴い輸入が増えるわけでもなく、小麦と菜種油、畜産という、まさに宿の朝食のような生活をできるだけ自給でまかなっているという感じのようだ。
メキシコで高速バスに乗るとトウモロコシ畑をよく見るし、セルビアのバスでも車窓はスイスのように混合農業で、小麦ととうもろこし、ひまわりの菜種畑という感じだった。しかし、同じトウモロコシを栽培しているメキシコ、セルビア、そしてスイスの農民の待遇は大きく異なるだろうな、と思う。
食生活はあまり変わらないかもしれないが、世界は変化しているわけで、もちろんスイスも現代に生きている。この小さい街の11%が外国人で、セルビア-クロアチア語話者もそれなりにいるというWikiの記述があって、まあ国自体もそれなりに移民が入ってきているはずだが、彼らはどこに住んでいるのだろう、と思った。
格安のアパートのようなわかりやすい外観のものは、すぐに見当たらない。
そして、どうしても比べてしまうのだが、金持ちの数では圧倒的にアメリカが多いはずだ。ただ、アメリカは平均というものの意味があまりない一方で、スイスはもう少し平均的に豊かであるように見える。
スイスには金持ちが多いことくらい誰でも知っているとは思うが、データで見ても、国民のミリオネア率で圧倒的な世界一(14.9%)、可処分所得の貯蓄率も20%近くになり、これはもう全く勝てないなという感じだ。
ちょうど2000年から2020年でスイスフランがドル建てで倍くらいになっている。まともな中央銀行と、世界的に有名な銀行制度があれば、誰でも貯蓄もするようになるだろう。
意外に相続税なんかは低かったりするので、日本から見るとなんて間が抜けたニュースなんだと言う気がしたりもするが、この辺は色々と世界の流れなんかにも合わせながらやっているようだ。
一方でアメリカは行くたびに、ここで指摘されているような「金持ち経済」化を感じる。アメリカの貯蓄率は比較的低くて(実は日本よりも高いのだが)、クレジットの借り入れがやたらと多いライフスタイルというのも昔からのような気がするが、同じ金持ちでもスイスとは対照的だ。
表面的にも、アメリカは低所得者層もそれなりにいるので、ダラーショップやら貧乏人から搾り取る金融サービスなど、彼らの生活がスイスのようによく見えないということはない。
関係ないが、最近話題のNISAでアメリカの株式インデックスを買うというのは、こういう経済のところに投資するということなので、それはそれで複雑な気分になってしまう。どうあれ、はやくまともな円のレートに戻って欲しいな、というのが結論だ。
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あと昔から不思議なのは、やたらとスイスの状況が詳しく語られるローカルなニュースが日本語で読めることだ。直接民主制のなにかなのかもしれないが、どうしてこんなことにコストをかけていられるのか、というのがよく分からない。
単純に韓国だったらメディアの商業戦略なんだろうし、中国やロシアだったらまあ理解はできる。
記事は旧共産圏のプロパガンダニュース的な匂いもするのだが、さすがにスイスの看板でやっている上、翻訳も自然で明らかに人のリソースがかかっていて、言っていることも比較的フェアに見える。
しかし、そのようなスイスの「正しさ」を、極東の大して理念を重視しないような日本語話者にまで伝えなければいけないのかというのも、一体どのようなモチベーションなのかが気になるところだ。